100年前の市井の人の声

おはようございます。日本夢之助です。

ちょいと芸事の目論見で

大昔の映像を参考にしようと思って

「従来よく見られてきた明治・大正時代の映像」を

Youtubeで探していたんですが、

求めてたた映像が探せなくて

代わりに

さらに驚愕の映像が出てきた。

なんと、

無声ではなく

有声が入った映像です。

しかも、当時の政治家の声ではなく、

街の音声なのです。

大正2年〜4年の東京の街を映した映像です。

大正2〜4年というと、1913〜1915年で

約100年前の日本の姿です。

こういう映像(写真も)はずっと見て居られますね。

さて、この音声が本物なのかどうか。

【0:50】の風鈴屋のおっさんが写って居るのですが、

風鈴の音が聞こえなかったり、

他の映像の中でも、走り去る足音など

聞こえる音声が必ずしも

目の前の写っていることと一致しません。

撮影している背面や側面の音声が拾いやすかったのかも知れません。

【3:02】の少女が球遊びしている箇所では、

ボールが跳ねている音が微妙に聞こえ、

こちらは映像に合っていると思います。

一般の市井の音は珍しいですね。

どうなんでしょうか???

以上。

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《今後の展示》

・Gallery & Darkroom LimeLight (大阪・帝塚山)

『額装2点』2020.9.27-10.3

A4の写真を額装して2点展示いたします。

・Gallery & Darkroom LimeLight (大阪・帝塚山)

『モノクロベスト2019セレクション展』 2020.11.22-28

モノクロ写真を展示いたします。

間隙のItaly

おはようございます。日本夢之助です。

今夜は、

大阪ミナミの宗右衛門町にあるLIVEスペース「Loftplusone west」(ロフトプラスワンウエスト)にて

ライブを観に行ってきた。

正確にいうと

聞きに行ってきた。

音楽?

No!

漫才?

No!!

答えは、徳川家康の話です。

バカ売れした中公新書『応仁の乱』の著者、呉座勇一先生と、

『あかんやつら』時代劇や大河ドラマについて多数の著書をお書きの春日太一先生の

トークLIVEでした。

作家のお二人を生で見れた、ってのは僕の中では

めちゃくちゃ凄い事なんです!

感激の至りなのです。

以上。

結構 ⇄ if

おはようございます。日本夢之助です。

「 if(もしも…)」の世界を考えることがあります。

例えば、

織田信長が本能寺で殺されてなければ…

例えば

坂本龍馬が暗殺されなければ…

今、日本という国が存在できてたのだろうか?

と考えるのです。

結構

という言葉が割と好きでして、

わたしは、

《物事は、結局のところ、収まるところに収まっていく》

というのが、この言葉に対して持っているニュアンスなのです。

今、日本という国が存在している事実は、ある種の「答え」だと言えます。

※存在してない仮定の話が「正しい答え」だったとしても、答えとしての【正統性と説得力】は、まず目の前にある事実の方に優先される。

日本史の教科書に書いてある様なことは

そうなる結果に収まっていく過程としては必然的な出来事だったのだろうと、感じるのですが、

そういう意味では、

何が起ころうとも

今の結果(状態)に至るための必然的条件っていうのは、

通史の中で語られている数ある歴史的事件の中でも、

どれが当てはまるのだろうか?というのにも関心がありまして、

仮に

江戸時代の統治形態とされている「封建制」が絶対的な必要条件だとすると、

織田信長がそのまま長生きして統治していても(=後の統治者が徳川家康でなくても)

日本という国には「封建制」が施かれていたかも知れない。

それが起こったから今があるのか?

それが起こらなくても今があるのか?

 

これについて想像を巡らすのが、わたしにとっての歴史の楽しさなのである。

以上。

アナログ人間なんで

おはようございます。 日本夢之助です。

ガラケーからスマホに変える時や、

それを使って

twitterInstagram等SNS、Youtubeを始めてみたりする時に

自己紹介がてら使う常套句、

または、

始めない人が使う言い訳として

「アナログ人間なので」

の類の言葉を

“それ履歴書にも書いてんのか?”っていうくらい

よく目にします。

なぜ、今更こんな事を書くのかと言いますと、、、

今ではすっかりYoutubeでチャンネル作って、コンテンツを世に送っている同期の芸人が

ブログを始めた、というのを

たまたまtwitterのタイムラインで拾ったので、読んでみましたら、

その、Youtubeを始めるに至った顛末が書かれている。

その中で、

上記の「アナログ人間なんで」という言葉が

案の定出てきたので、

まじまじと見つめて、改めて考えてみた。

考えてみたら、面白い。

 アナログ人間なんで」というけど…

元からそうではないだろう。

わたし達が生まれた「赤ん坊の頃」なんて

だれもが

アナログ人間でさえない、のだ。

何者でもない、ゼロである。

ゼロの状態から

いつの頃かアナログ人間になったのだ。

それが、どの瞬間かは、わからない。

それは、壁にかかった鳩時計を見た瞬間からかも知れない。

母の料理の手伝いで量りを始めて使った時かも知れない。

でも

わたしたちは

ゼロからアナログ人間に進化した経歴を持つ。

※ネイティブ・デジタリアン世代の方は知らないけど。でも、生まれた時からデジタルに慣れ親しんだ人が何かしら拒否る時に「デジタル人間なんで」っていうのだろうか?

「生まれた時からアナログ人間」みたいな顔してますけど。

要するに

人間としての経歴書には

アナログ人間になった経歴があるのだから

簡単に、

今すぐに、

デジタル人間になれるって!ってことなのです。

大体、

Youtube=デジタル

って、図式自体がそもそもおかしいのだけど。

なので、

何かを断る理由として

「アナログ人間なので」という言い訳はナシである。

もう、

飽きた。

「大っ嫌いやねん。

だから俺は、Youtubeせーへんねん」

と言って欲しい。

以上。

これからの消費

おはようございます。日本夢之助です。

先日、久しぶりに喫茶店に行った。

わたしは「行きつけ」と言える喫茶店が

3つあって、

その内の一つは比較的家から近いので早々に復活したのだが、

残る二店は

半年または4、5ヶ月ぶりに訪れた。

一つは、

突然行かなくなっちゃので「裏切り者」と言われてたそうだが笑

「なんでやねん」

で済まし、また元に戻る、とても居心地の良い喫茶店である。

もう一つは、

近所を久々に通り過ぎるところで、顔を出すつもりで店に行ったが

それからコーヒー一杯で長く話し込んでしまった。

どちらも

そこに馴染みのマスターや店員、

知り合いが経営しているから行ったり

時間がなくても通りかかればドアを開けて「また来ます」と挨拶するのであって、

以前みたいに

例えば、街に出て、休憩がてら知らない店に適当にふらっと入る、

みたいなことはなくなった。

そして、そういった事は当分の間はないであろう。

むしろ

行き残るお店は、そこにいる人達の人間力(友人関係など)が大きく左右するだろうし、

そこの商品の付加価値となる。

コーヒー一杯に同じ様な額のお金を使うのなら、

やはり行きつけの喫茶店にわざわざ行って顔を合わす方が良い。

あれ、、、、

自分では気付いてないのかも知れないが、

もしかして

わたしは、寂しいのであろうか。

以上