キョウトバナレ(前)

お疲れ様です。

本日、大阪・今里のギャラリー・BEATSにて

『STREET BEATS vol.26 〜冬の散歩道〜』が終了しました。

京都の写真を6枚展示しました。

大阪に住む者として、

「京都」ととうのは、

どこか近くて遠い

どこか遠くて近い

そんな『京都』を継続して撮ってみたい、みたいな考えが一昨年くらいにはあった日本人はあったんですが、

ところが、

(月に2回でも毎月行くの、、難しくないか?)

(何か、しんどいな、、、)

みたいな感じになり、去年の初頭に早くも頓挫したのですが、

やはり、マグマのように

どこか消えずに残っていたのです。

また、今年は、

先出のギャラリー・BEATSの写真修行僧という毎月写真Bookを作る企画も移転の為一旦中断という事もあり、

それを自主的に継続するって時に、

(京都を撮る)というテーマで出来そうだな、ということで

早速この1月は2回、京都に行って軽く歩いてみました。

『キョウトバナレ。』

所謂、インバウンドへの反動としての日本人の「京都離れ」も

今はもう昔、の感で、

今は、さしずめ、アフター京都離れかも知れないが、

ここ2年ぐらいは確かに叫ばれていた言葉でもあり、

今は、また日本人が京都に戻っていっている過渡期かも知れない。

そんな京都を、

そこに住むでもない、

大阪済みのアウトサイダーが、月に何回かふらっと訪れて、何かしらの好奇心とカメラを持って

京都を撮ってみようかと思う。

BOOKのタイトルは『キョウトバナレ』。

(明日へ続く。)

《今後の展示》

BEATS(大阪・今里)

『BEATS写真修行僧2025展』

2026.2.11(水)〜15(日)

水〜土 / 12:00〜19:00

日 / 12:00〜18:00

②BEATS(大阪・今里)

『冬景2026』

2026.2.25〜3.1

Shock!

昔のブログ記事が全部消えてしまった!

私が大学4回生(休学してNSCに通い出した頃)に

gooブログというNTTが運営するブログサービスで

ブログ執筆を始めた。

ブログ名は

松ちゃんの『やりっ放し やられっ放し』」という素晴らしいブログだ。

開始から6、7年近く、毎日書き続けて数百件あった訳だが、

そのブログサービスそのものが

まさに、昨日2025年11月18日に完全終了した。

その通知は前から受け取っており、

記事をバックアップしておきたいな、とずっと逡巡するばかりで手をつけず、、、

終了日時をもう一週間近く後だと勘違いしてた私も悪い。

gooブログ後は、

一時期は『Medium』という海外ブログサービスへと転々として、

その、一番古いgooブログには長年ログインもしなかった訳で

アカウント自体もないことになってて記事のバックアップしようとログインしようにもできず、

手作業で何百件とコピーしようか、どうか。。。

いや、そんなことしなくても他に手はあるはずだ、と探し当てたのが

サイトを丸ごとコピーできる『HTTrack』というサイトで

さて!正に今からコピーしようとしたら、、、

サービス終了のお知らせ

gooサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。お客様がアクセスされたgooサービスは終了いたしました。』

とあり、数時間前に完全に削除されてた。

しかし、

昔に書いたことをねぶっててもしょうがない訳で、

おかげで、これから毎日書く決心がつきました。

、、、と思わないと、やってられるか!

それでは皆さん、また明日〜

死について

死についてたまに考えることがある。

こういうことを書くと「死にたいのか?」と思わせてしまうかも知れないが、

全然そうではない。

寧ろ、長生きするだろう。

そう思うぐらいに「死」というものが自分と本当に関係があるのか全くイメージできなのだけど

頭で考えれば必ず訪れるものでもある様だし、

友人や知人が実際に亡くなった。

数年前には祖母も亡くした。

だからという訳でもないが、「死」が何なのかということを随分前から考えたりしてきた。

このブログのどこかでも、その時点でまとまった考えを吐露したこともあったと記憶する。

まず、最初の問いは

「なぜ、自分は死にたくないと考えるのか」

それは、怖いからだ。

なぜ怖いのか。

痛いかも知れない。

いや、それは分からない。

死んだ事がある人がこの世に居るならば聞いてみたい。

死ぬ瞬間は痛いのか。

痛いかどうか分からない「死」が何故怖いのか。

じゃあ、死を恐れる理由は他にある。

自分が忘れられるのではと考える。

とりあえず、今のところの理由はそれである。

なので、「死が怖い」に変わらないのだけども

そしたら次は、どう考えたら死を怖く感じなくなくなるだろうかという方法である。

こういうのはどうか。

人の生/死とは電気のON /OFFのようなものではないのか。

電気というのは、ONにす(点け)れば周りを明るく照らすことができる。

その状態が人間の「生」であるとすれば、「死」は電気が点いてない状態である。

普通に生活をしていれば、電気がONの状態(もしくは効果)に価値がある様だが

それは我々がそこに多く価値を置いているからだけの話であり、

ともすればOFF(点いていない)の状態にも価値を置くこともできる。

『明るく照らされ過ぎた世界は、電気を消して守らなければならない』

なので

「電気のONとOFFは等価値」である。

そして、電気という装置自体は、ON /OFFの状態が切り替わるだけで、変わりがないのである。

OFFでも変わらず電気という装置はそこにあり続ける。

それを人の生死と重ね合わせると

「生」と「死」は等価値である。

「私」という意識がこの世にずっといて、

肉体という物理的生命が宿っているか、肉体を離れて意識のみが存在する、

そう考えることで

「死」に対して若干は恐れが薄くなる様な気がするのである。

こういう考えは、輪廻転生ではなく

「私」という“意識”こそが「私」なのであり、それが肉体が死んでも

もしかすると霊魂となって存在し続けるのでは、という考えが前提である。

という事で、

生と死が等価値だからといって死ぬ訳でもなく

今生きていることで知れている「生」の状態しか知らないもんだから

その「生」を精一杯生きなければならないのである。

また明日。

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新しい相棒カメラ:CHUZHAO

昨日、新しいカメラを2000円で譲ってもらいました。

二眼レフの形をしたデジタルカメラ。

こういう商品を作らせたら中国は天下一品だ。

画角も素晴らしい。

しかし、あまりにも機体が軽過ぎて

シャッターを押す力でカメラ全体が押されてしまい簡単にブレてしまう(汗)

底に文鎮を貼り付けて重くしてやろうかと考えている。

撮る意欲を維持す為には手段を選んではいけないのである。

それでは、また明日。

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