休業補償についてのウルトラCを真剣に考えてたら共産主義的な考えになった(笑)

おはようございます。日本夢之助です。

今日は、極めて自分に都合が良い休業補償について書いていこうと思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

結論

状況はいたってシンプルです。

潔癖的にコロナウイルスから逃げ続け、ずっと休業補償。

または

どこかのタイミングで開き直る(例:5月6日から通常運転再開)。このどちらかです。

休業補償分のお金の根拠を財政赤字分に組み込むか、または、ただお金を刷って配るだけか。

それは資本主義と共産主義の分かれ道になりますが、

もちろんウルトラCは、「お金を刷りまくって給付」です。

ウルトラCなので可能性ゼロですが。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

え〜

本日、4月16日に報道にありましたが

国民一律10万円給付という形に落ち着きそうです。

10万円にしても30万円にしても

一時金なのか

継続給付なのか。

またはどこかのタイミングで再度給付されるのかの記載がないので

もちろん一時金としてみるのですが、

その場合は

そのまま固定費(家賃など)の為に使わない(溜めておく)というが

自然な人の心だと思います。

例えば

減収で30万円給付が受けられた人の場合でも、

30万円を一回だけ支払われる場合と、

10万円が3ヶ月に亘って3回支払われる場合では

お金の使い方が違ってくると思います。

今回の非常時に限らず平時の給料もそうですが、

やはり「来月も給料が入ってくる」から使うのです。

使えるのです。

だから、

国民一人に対して月額10万円でも

1年間給付、っていう風になって

やっと

お金って安心して使えるもんだと思います。

全国民に月額10万円を一年間給付するとして

一年間の継続給付は必要だと思います。

仮で日本国の人口を1億人として計算したら

ひと月で10兆円です。

1年で120兆円です。

年間の国家予算とは別で。

経済は、結局、人の心で動きますから

やはり1年くらいの継続型給付金で

やっと動く

ってそれくらい

人の心も傷ついているはずなんですよね。

(5/6以降に日本という国が通常運転を再開するならば別ですが。)

これを解決するウルトラCがありまして。

少し前に考えた事なんですが

そういう財政再建がどうだとか関係なく

日本銀行が1万円を120兆円分刷って配るったらいいんちゃうの?

と思うんですが。

超超超・暴論ですが。

ただ、貨幣が出回り過ぎて、インフレ(貨幣価値の下落と、物価の上昇)が起こりますが。

または

あらゆるモノのサービスを全てタダににする。

家賃もタダ。

スーパー行ってもすべてタダで持って帰れる。

生産者もただでモノを作れる。

トラクターの燃料とか、農作物の種とか肥料とかもすべてタダで手に入れられる。

電力もタダで手に入れられる。

生み出されたサービス・価値を国が全て買い取る。

生産するのに必要なコストもすべてタダだから、生産者もすべてタダで作れるという世界です。

それは

すべてのモノに値段がつかなくなる。

すべてのモノの価値がなくなるという事です。

つまり

お金をなくす、というやり方です。

これは

海外(の国家や企業)からモノを買わない・売らないということを外して

国内経済だけで考えれば、可能ではないのか?と思うんですが。

お金があるからモノの価値が相対的になってしまうのではないでしょうか?

だから

お金がある以上

支出・収入や借り・貸しの辻褄を合わせないとダメだし

貧富の差が生まれるんですが、

そもそものお金の存在を否定する世界を作れば

そんなつじつま合わせなど要らないし

貧富の差もなくなるのではないでしょうか?

でも、これ、

いま

この文章を書きながら気づいたんですが

これが共産主義的な考え方なんだと思います。

逆に

19世紀〜20世紀初頭のロシア(→ソ連)の歴史を辿ると

実は

共産主義が生まれた状況って

今と似たような状況下で

減収に困った貧困労働者が生き残るために考えた自分勝手な革命思想だったんじゃないかと

思わず想像してしまいますね。

経済的な要因やまたは災害によって恐慌に見舞われるのは世界的には同条件だとして

そこで

お金の存在を

否定した国(共産主義)と

否定しなかった国(資本主義)に別れて対立した100年が20世紀だったのでは。

訳が分からなくなってきたので、今日はここで終わります。

明日以降は全然違う話を書きます。

「毎日の味噌汁をさらにおいしくする方法」とか、本当はそういうのを書きたいんですが。

この御時世、スーパーにて思う事

今日もスーパーはすごい人でした。

今までそんなに利用しなかった若い子もよく目にします。

以前から

コンビニはほぼ利用せずに

スーパーの方を意識的に使っている方なんですが、

コロナ問題が本格化して以降

僕の目によく留まる光景がありまして

それは

品出し風景です。

商品がどんどん品出しされていくのを目にしますと、

その外界(スーパーの外)では

他の店(食料品以外を売ってるあらゆる店)とか全く消費されずに

閉まってたり、例え開いてても閑散としてたり

それこそ

繁華街の静けさに象徴されるような

元気のなさと、

スーパーでの

あの

白衣の品出し係の人が奥からカートを押して勢いよく出てきて

新鮮な惣菜や巻き寿司のパックが並べられていく

あの勢いが

同じ世界か?っていうほどにコントラストが強いんですね。

でも

地方から出てきた者として

都会には「モノで溢れ返っていう程、何でもある」様に見えますが

スーパーを利用する大勢の都会人を眺めていると

都会には実は「何もない」んだなと感じます。

何もないからこそ、地方で作られた農産物が都会に集まり、ただ消費されていくっていう。

そりゃ、都会でもモノは作られていますよ。

大阪でいえば、少し郊外に出れば工場があって煙とか出して何かが生み出されている訳だけど

でも、そんな郊外も

大阪の一番の都心部と比べたら地方に当たる訳で、

「あ、そうか…中心部ってのは何もないところなんだな」って思いますね。

それは

生産・消費という現代人の行為だけでなく

神羅万象・あらゆる物事の中心には

実は

何もないんじゃないのか?とも思えたりします。

コロナに関するニュース10選

今日はニュースサイトからコロナウイルス関連のニュースの中で気になったものを、10(+1)本をまとめて並べてみました。

ニュースソースに対して、真面目な一言とニンジンを添えてます。

△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲

⬇︎結果的にどうなるか知らないが、ほっこりします。日本よりよっぽどライスだね!

・ベトナム各地に「コメATM」、収入断たれた人に無料で配布(4/14)

https://www.cnn.co.jp/world/35152334.html

(CNN)

⬇︎こういうのは日本の仏像でも神社の狛犬でも出来る事だから真似したら良い

・キリスト像が白衣姿に、医療従事者へ感謝の意 ブラジル・リオ(4/14)

https://www.cnn.co.jp/travel/35152342.html

(CNN)

⬇︎このくだらなさは素敵だと思うし、日本でも流行りそう。

・ゴミ出しはドレスや水着で――フェイスブックの公開グループが人気(4/14)

https://www.cnn.co.jp/tech/35152289.html

(CNN)

⬇︎これに関しては、間寛平師匠の最高なtweetによって、僕の中では成仏してます。

・安倍首相が自宅でくつろぐ動画、投稿に批判の声も(4/14)

https://www.cnn.co.jp/world/35152324.html

(CNN)

・間寛平師匠のTwitter

⬇︎僕は、猫より競走馬への感染が心配だ!自分の感染より心配してる!LOVE競馬!

ネコは新型コロナに感染しやすいとの研究、WHOは調査を強化(4/9)

https://mainichi.jp/articles/20200409/reu/00m/030/004000c

(毎日新聞)

⬇︎バランスですね。

・インド北部から数十年ぶりにヒマラヤ眺望、新型コロナ対策で大気汚染改善(4/10)

https://www.cnn.co.jp/world/35152184.html

(CNN)

⬇︎安定の北朝鮮。日本は北朝鮮を見習うべき!

・北朝鮮で709人検査、509人隔離 感染ゼロを主張(4/9)

https://www.cnn.co.jp/world/35152154.html

(CNN)

⬇︎外出自粛しても恋は自粛してはダメだ

・感染の震源地の武漢市で結婚が急増、封鎖解除後に(4/9)

https://www.cnn.co.jp/world/35152149.html

(CNN)

⬇︎当たり前や

中国、犬を「ペット」に再分類 食用可能な動物のリストに含まず(4/10)

https://mainichi.jp/articles/20200410/reu/00m/030/004000c?yclid=YJAD.1586870401.75CyahCdcq3vymrVfGP1FDVRi9.neKnJMBfyD7gKrQmbQyOvQN8Uz.KlbRh_lIb8kF1KCW2bB7TOtro-

(毎日新聞)

⬇︎僕がヤギでも出て行くだろう

・町にヤギの群れ 新型コロナの外出制限が影響か 英国(4/1)

https://www.cnn.co.jp/video/19311.html

(CNN)

〜オマケ〜

鳥取県で初の感染確認 鳥取市の60代男性 新型コロナ(4/11)

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200410/k10012380771000.html

鳥取県出身者としては、ショックよりむしろスタバ初出店の時の「やっとスタート地点に立ったか!」っていうのが正直な感想です。

もちろん個人レベルでは感染しないに越したことはないんだけど。

感染された方の一早くのご回復をお祈り申し上げます。

今報道されている感染力を考えると、山陰2県だけ一生出ないなんてことはあり得ないことだし、こうなった方がその分だけ県としてファイティングポーズが早く取れるから。

少し前まで電話で家族と話しても、別の国?って思うくらい呑気でした。

県も、感染者が出ないにしてもそれなりの対策をとってきたはずだろうけど。

共同体単位で考えれば、他の全国が抱いてる危機感とか苛立ちとかって共有した方がいいのかな?それとも処女的に未感染の状態が続けれるようであれば、それはそれでそっちの方が良いのだろうか?どうなんでしょう?

どっちが正解かは一概に判断は出来かねるが。

でも「感染者がまだ出てない」っていうのはなんの勲章にもなりません。

テンプレート

おはようございます。日本夢之助です。

仕事があるから外には出るんですが

街角とかで

「いつまで続くんだろうねぇ」という

近所の人同士の挨拶コトバのような会話を耳にする時があります。

夏の時期の

「暑いねぇ」みたく。

コロナ事態はどういう風に終わっていくんでしょうね。

東日本大震災の時もそうでしたが

ああいう災害の訪れって

「はい、今からです!」

っていう風に

いきなり始まる(襲ってくる)んですけれど、

「はい、ここで終わりです」

という映画撮影ん時の

「カット!」

が無い訳です。

あまりにも豊富な色表現によるグラデーションで

残酷以上に

いやらしく

しれ〜っと通常運転に戻っていくじゃないですか。

(※そして、東日本大震災の復興はまだ終わっていないのですが。)

間違ってても良いから

このコロナ事態の収束の仕方を

国民一人一人が

想像(想定)するべきですよね。

いつかは、コロナウイルスに対して開き直らないといけません。

でも、街角で「(コロナ問題)いつまで続くんだろうねぇ」と言ったあの時のおばちゃんは

もしかしたら、侮れない。

実は、本当にそう思って口にしているんじゃなく、

ちゃんと

事態の収束形をしっかり想定はしているけど

その日の朝一番に出合ったご近所さんと歩調を合わすための

コミニュケーションツールとしての

「いつまで続くんでしょうね?」

だったかもしれない。

夏間近の時期に、毎年の事ですが

自分は別に暑くなくても、とりあえず言うとこか、の

「暑いですねぇ〜」

ってありますでしょ。

とりあえず共感できるテンプレート化した挨拶文。

言われた方も、別に暑かないけど

「いや、暑くありません」っていうのもアレやし

挨拶として合わせととこう、の

「私、もう死にそうですわ、奥さん」みたいな。

でも、お互いがちっとも暑くなんて思ってないっていう。

今は、暑いかもしれないが、今だけやん!みたいな

コロナ問題もこうなるとへっちゃらだし

社会が強くなるって、そういう事なんじゃないかな。

x線上の「2」〜生きているのは、死んでいること〜

おはようございます。

日本夢之助です。

最近漠然と浮かんできた死生観がございまして。

生き物の状態を言葉で表すと、

「生きてるか、そうでないか」

で、いわば二元論になります。

【言葉尻だけで】パーセンテージを決めるとしたら

各々50%ずつじゃないですか。

・生きている 50%

・生きていない 50%

そしたら

生きてるのと生きていない(死んでる)のって一緒の事なんじゃないか?

と思ったんですね。

(注:生きる意味とか価値は、ここでは別の話。)

例えば

織田信長って人は

生きてるときは、織田信長って人が生きてて

でも、死んでも織田信長は織田信長なんですね。

ただ、状態が変わっただけ。

それは

多くの人に語り継がれているような歴史的な大人物だからじゃなくて

個体として生まれてきた我々全員にいえることだと思うんです。

僕でいえば

生きてる僕は僕であるし

死んでも

僕であることに変わりがない。

状態(モード)が変わっただけ。

明日生まれてくる子も、今はまだ生きていないって状態ってだけで、

その子は次の日に生まれてきて、何十年後かに死んでいく。

死んだ先も、その子のアイデンティティは変わらない。

iPhoneも電源がONになって光っている時だけがiPhoneじゃなくて

OFFの時も、(役には立たないが)iPhoneに変わりがないですよね。

そんな事を最近考えてた時に、先日ですね

駅のベンチに座って待ってたんですね

ふと壁にかかってたアナログ時計を見た時に

(その時は針も差していなかった)数字の2が

なぜか目に入って、

ちょっとの間見つめながら、、、

学生時分に勉強した数学を思い出しまして。

座標の問題でx軸、y軸って出てきましたよね。

x線上の数の中で仮に適当に「2」という数値だけをピックアップした時に

その「2」は

果たして

それだけで存在し得るのか?と疑問に思ったんですね。

2の前の1以下の数と、

2から続く3、4、5、6、7、…という

【「2」ではない無数の値】があるから存在しえているんじゃないかと。

「2」までのそれまでの流れと、それからの流れがあって初めて

「2」という数値(記号)が自分の存在を証明し得るんだと思います。

だから、「2」であるっていうことは

「2ではない」というのと

一緒のことで、

これを「人間の生」に当てはめて

生きてるっていうのは、死んでること。

モードが切り替えるだけ。

という風に考えると、世間一般の「死の恐怖」というのも若干和らぐんじゃないかな?

とふと考えてみました

あまりにも

すぎて。