光秀、時代の流れ

おはようございます。日本夢之助です。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」

観ているわけではないが、

Youtube

「本能寺の変」ないし「明智光秀」を扱った、誰かが載せている歴史番組をみて

少し感じた事を述べます。

保守 対 革新

という、ありきたりな構図で考えれば

明智光秀というのは保守である。

時代の流れというのは

信長が存命している時はまだ見えないのだが、

その、見えない時代の流れを断ち切ろうと

本能寺で信長を殺しても、

流れは止めることはできなかった。

光秀は山崎で秀吉と戦って負けるのだが、

負ける理由というのは

戦略・戦術(兵力etc)ではなく、

もっと根本的な、政略として既に負けているから、戦いに負けたのではあるまいか。

政略的に負けるといのは、

言い換えれば

時代の流れに合っていない、ということである。

時代は下って

幕末の戊辰戦争も

やはり兵力云々というより

時代の流れ、が大きいと感じます。

さて

11月1日には大阪にて

大阪市を廃止して特別区設置の可否を判断する

住民投票が執り行われるのだが、

ここにも

誰にも止められない時代の流れというものは、果たしてあるのだろうか?

時代の流れ、などとそんな大それたものなど

関係のない事なのかも知れないが、

しかし

大いに関係してくる事かも知れない。

そもそも、

「時代の流れというもの」自体を考えたときに

過去はすべて正解を選び、この先も全てを押し流していくのがもの

というわけでなくて、

間違いなのだが、そうなってしまったのだから、正解とせざるをえない

というのが積み重なったものが歴史なのかも知れない。

以上。