もしも暦(カレンダー)というものがなかったなら

おはようございます。日本夢之助です。

今回は、毎年盛り上がる「靖国(神社参拝)問題」の解決方法を教えします。

結論から言いましょう。

人類が暦(カレンダー)を考えない様に生きていくことです。

世の中に暦(カレンダー)があるおかげで

8月に入って6日を迎え、9日を過ぎ、月の半ばに差し掛かるとソワソワしながら迎える敗(終)戦気分、、、というのを

毎年味わっているのです。

だから、

時間というのは

反復などせず

未来に向かってただ一直線に向かっていっていて、

今後

暦(カレンダー)を意識せずに生きていけば、

靖国問題については、

昔、日本は戦争をして、夏の暑い時期に負け、、と、

「正確にいつかは分からないが確かにあった」時の一点だけを個々が覚えるだけで、

毎年イチイチ一悶着は起きないのだ。

暦(1秒・1分・1時間・1日・1週間・1月・1年)によって時間が反復するから

靖国問題(だけでなく全ての問題を含む)も反復するのである。

と、いいますのも、

普段、「時間」というものを考えることがありまして。

時間を絵にしたらどう描けるんだろう、と。

そして

「この暦がなかったなら」の世界を想夢することがあるのです。

その場合、人間が生活する上で何の支障があるのだろう、といろいろ考えます。

根本的に、時間が今のカレンダーの様に存在するのではなく、

大昔に人間がカレンダーの様に時間を割ったんです。

そして

人間が、時の流れを、その“割り”通りに思い込むことで

様々な利便性を享受しています。

つまりは

人間の認識の問題に過ぎないのです。

まず一つに、

先々の約束ができない。

プライベートなつまらない約束から、ビジネス上のアポまで全て。

例えば

単に、人と会う約束一つにしても、

「あと※※回夜が明けた日の、〜〜で会おう」となる。

そして、夜が明けるごとに正の字で数えたりして、、、頑張っても1週間が限界だ。

至極、面倒臭い。

そう考えると

暦(カレンダー)がどれだけ便利かが実感できるし、

暦のない場合のコストと、

靖国問題を天秤にかけた場合

あの毎年のめんどくささは、決して高くはないのではないかと思います。

これで、靖国問題の解決方法の選択肢の一つは消えました。

以上。

★暦(カレンダー)がない世界で困ることが他にあれば、ぜひお教えください。

《今日の味噌汁》

〜玉ねぎと鶏〜

敗戦日と終戦日

おはようございます。日本夢之助です。

毎年訪れるこの日が今年も訪れました。

皆さんにとって8月15日というのは

終戦日でしょうか?

敗戦日でしょうか?

各メディア、例えば全国紙の社説は軒並み「終戦日」で

朝日と毎日が「敗戦」という言葉を使いたがる印象を受けます。

わたしの、終戦/敗戦の語感と各紙のイメージは、先ほどの集計とは逆なんですが。

また、個人レベルでも、己の政治信条によって呼び方は変わるのではないでしょうか。

終戦日は、

戦時下において戦争に反対している人々が「やっと終わった」と戦いの終わりにホッとし、悦ぶ情景が思い浮かびます。

敗戦日は、

勝とうと夢見た人々の脱力感を感じます。

あくまでも、わたしの個人的には、

敗戦日、がふさわしいかと思います。

やはり

「何かわからないが、そういう事になってしまった」戦争ではなくて、

明らかに、

「そうなる様に選択をした」戦争に違いなく、

敗戦という結果に帰結させない(負ける戦いをしない)為に、

家康の脱糞図として

8月15日は「敗」戦日、という言葉にした方がいいと思うのです。

それにしても、

毎年、靖国神社参拝についての取り扱いがままならない。

それは、韓国の取り扱い(外交)の、永遠のままならなさと同じである。

わたしは、

政治家の靖国神社参拝は「やめとけ」という立場である。

それが

1965年の日韓請求権協定での賠償を、感情的ないし政治的に裏付けるものだと思うし

つまりは、徴用工の問題と繋がってくると思います。

徴用工請求問題は、もはや韓国の内政の話であるが、

それは

日本側の、靖国神社参拝の遠慮というところからの歩み寄りも必要かと思います。

技術論として。

以上。

《今日の味噌汁》

〜玉ねぎとほうれん草と鶏モモ肉〜

自然エネルギーへの転換を本気で考えたくなる時

おはようございます。日本夢之助です。

最悪だ。

おなじ国民として、責任者(国際法条、船の所有者らしい)の真摯な対応をお願いいたします。

こういった映像を見ると、

化石燃料エネルギーから

自然エネルギーへの転換を本気で考えなければならない、と感じます。

《今日の味噌汁》

〜玉ねぎとほうれん草と鶏肉〜

ここ3、4日は同じ材料ですが、全く同じ味噌汁をしっかり作っております。

使いたくない日本語②「エモい」

おはようございます。日本夢之助です。

特に若者にとっては使い古された、古い言葉だと思いますが

「エモい」

という日本語は

決して使いたくない訳なんですね。

エモーショナル、emotional

つまり「感動的」という意味の英語の形容詞の後ろに

「〜い」をつけて、日本語化している訳ですが、

感動って何種類もある訳じゃないですか。

例えば、シンプルに喜怒哀楽の4原色から、

その間の細かなグラデーションの数だけ感動の深さがあって、

その外にある別の感動もあります。

そして、それを言葉で表すには余りあるほど

日本語の語彙数って豊富なはずなんですね。

でも

それを《諦めている》経緯が如実に表出している言葉だと思います。

そして、

「エモい」っていう響きがキモい。

気持ち悪いですね。

少なくとも、わたしは、「エモい」の響き、語感などから

秀逸な現代語ではない、と思っています。

だから、「エモい」という言葉は否定したいが、

そういう言葉が存在する今の社会は、

肯定するというか、そこにある状況・事実なので

見つめすべき材料としては面白いですよね。

以上。