効果の評価が出来ない政策をやった事が罪である

おはようございます。日本夢之助です。

●2020年5月25日 安倍首相「非常事態宣言の全面解除」を宣言

日本語がおかしかったですね。

“国民に感謝申し上げます”って

あんた(国)、何もしてへんがな

と思いますよね。

『感謝』するからには、誰かが何か徳を得たと見るべきで

現段階で、誰か徳を得たのだろうか?

国際社会への政府としての体面だろうか。

世間体のために国民は煮湯を飲んでいるのである。

それは、東京都にしても大阪府など各自治体にしてもそうで

結局

何もしてないんですよ。SPEAKだけはしてたけど。

それで「感謝申し上げます」とか「日本モデル」っていうのは

空(くう)にパンチしているような

フリなしでボケているような(フリだけでボケないわたしが言える立場ではないが)。

今回の公権力の施政で身近な実感できたのは

知り合いが、届いたマスクをインスタグラムで挙げてたのを見たのと、

特別給付金の申請書が送られてきた?のを聞いたのか聞いてないのか、それさえも朧で、

、、、ということは

確かなことは、

国家・地方自治体ともに

マスクを配っただけじゃねーか

と、少なくともわたしの周辺ではそれしかない。

●法を守って国が潰れる

今回の政府の罪は、

「効果を判定出来ない政策を2ヶ月間も続けてしてしまった」

ことだと思います。

所詮、要請だから

例えば、コロナウイルスの感染者数や死者数とか

「非常事態宣言」という名の宣言がどれ程の効力を発揮したのか、とか

そういった数字がなぜそういう数字になっている(抑えられている)かが

見極めれないと思うんですよね。

国民も、ステイホームしてたのですが

・自前のキレイ好き(感染予防)からやってたのか

・要請があったからやってたのか

・外出したら人から叩かれたり気まずいからやってたのか

それは、宣言下の人出と、昨日今日の人出を比べても

宣言の効果として評価できるものでは決してない。

自分でも分かんないです。

ステイホームしてた(またはしてなかった)理由と、

今外に出てる(または、いまだにステイホームを維持している)理由と

同じ人の中でも違うんじゃないのでしょうか?

一回自己分析してみたら面白いと思います。

非常事態宣言がなくても国民はそうしてたかも知れないとも思えます。

結果論的ではありますが

このブログでも以前にも申し上げましたが、

国民の善意に付け入っただけである。

仮に、ロックダウンでもしてたら

それはそれで一定の政策評価ができるんですよ。

ロックダウンが必要なのか、やりすぎなのか。

当初、ロックダウン出来なかった理由に、

治安維持法などの法律まで持ち出して戦前の経験(国家権力、法の強制力)を理由に挙げ

日本では無理、ということでなされなかった、と言われています。

かと言って、

その法をあまりに厳格に遵守し過ぎるのは

それによって惨禍を被るのと一緒である。

日本人が履き違えている、と思うのは、

悪法自体を【悪】とみなしていることで、

悪法は、別に悪用しなければ、存在してても悪ではない。

核爆弾自体が悪なのか?発射のボタンを押した人が悪なのか?

と一緒で

ロックダウン自体が悪なのか?ロックダウンを実施する政治家が悪なのか?

というハナシ。

悪法も運用の仕方では、国益につなげられる可能性もあると思うんですね。

法運用の下手さと下品さについては、日本人は戦前から何も変わってないのではないか、と感じます。

日本人というのは、政治家・官僚だけに限ったことではありません。

悪法を上手くコントロールする自信がないのは

日本国民自身が、未だに「国民」になりきれてないからではないか、と思います。

以上。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です