おはようございます。日本夢之助です。
あまりにも暇なので 福沢諭吉翁の『学問のすゝめ』を音読しています。
わざわざ音読する理由・目的は幾つかあります。
・意外とちゃんと最後まで読んだことのない作品
「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」
というフレーズが 社会科や国語科の授業や教科書ではお馴染みの『学問のすゝめ』ですが、
果たして
知っているのは、それだけなのです。
この一文だけだと、
【すべての人は差別されない】といった漠然としたことを云ってるんだなとも
捉えることも可能ですが、
違います。
「差別されるよ〜」と言ってます。
掻い摘みすぎましたが、
(平等は平等だが、それだけに、勉強する・しないで豊かになる人と貧しくなる人に別れて、結局差別されるよ)
と、あくまで機会の平等を言っているのです。
今の時代でも至極当たり前の価値を明治初年にして書いています。
そういう時代(幕末〜明治)にあって そんな事を考えたのは、福沢諭吉だけなのでしょうか。
わたしは違うと思うんですよね。
どんな人でも、そういう事は、何かの拍子で考えうる、隙間みたいなものは有って、
旧幕時代が必ずしも閉塞感だけで充たされていた訳ではなかったのでは、と想像します。
福沢諭吉本人は、幕藩体制がアホらしく辟易してた様ですがw
・音読してることは、同時に理解できるか実験
今、音読している内容を、その音読と同じスピードで、理解できるのか?
って、個人的な実験です。
黙読して理解できる事を、もし朗読しながらでも理解できるなら
いっそ、朗読しながら理解した方が、
なんとなくお得感があります。
でも、雑に読むのは違うんですよね。
それじゃ黙読と一緒になってしまいます。
その場合は、黙読しとけばいい。
朗読会でも開けるようなクオリティを上げて朗読しながら、
頭でも理解するのが大事なのです。
大事かな?
・幕末〜明治初年の人々の喋り方
昔の人はどんなしゃべり方をしてたのでしょうか?と思い巡らすことがあるのです。
この『学問のすゝめ』は明治5年に編されたものです。
読んでいても、全く今と変わりません。
それは、夏目漱石の作品を読んだりしても思います。
徹底して口語体のままで書かれた書き物は今の時代も別で 文語体となると、
今もこの頃もほとんど変わりません。
だから、喋っていることも今とあまり変わんないんじゃないかと思います。
皆さんもぜひ、試してみてください。
部屋の中で一人
だんだん
アホらしくなってきます。
今の時期は、家族みんなで朗読会とか良いかもしれませんね。
家族みんなで
アホになってください。