x線上の「2」〜生きているのは、死んでいること〜

おはようございます。

日本夢之助です。

最近漠然と浮かんできた死生観がございまして。

生き物の状態を言葉で表すと、

「生きてるか、そうでないか」

で、いわば二元論になります。

【言葉尻だけで】パーセンテージを決めるとしたら

各々50%ずつじゃないですか。

・生きている 50%

・生きていない 50%

そしたら

生きてるのと生きていない(死んでる)のって一緒の事なんじゃないか?

と思ったんですね。

(注:生きる意味とか価値は、ここでは別の話。)

例えば

織田信長って人は

生きてるときは、織田信長って人が生きてて

でも、死んでも織田信長は織田信長なんですね。

ただ、状態が変わっただけ。

それは

多くの人に語り継がれているような歴史的な大人物だからじゃなくて

個体として生まれてきた我々全員にいえることだと思うんです。

僕でいえば

生きてる僕は僕であるし

死んでも

僕であることに変わりがない。

状態(モード)が変わっただけ。

明日生まれてくる子も、今はまだ生きていないって状態ってだけで、

その子は次の日に生まれてきて、何十年後かに死んでいく。

死んだ先も、その子のアイデンティティは変わらない。

iPhoneも電源がONになって光っている時だけがiPhoneじゃなくて

OFFの時も、(役には立たないが)iPhoneに変わりがないですよね。

そんな事を最近考えてた時に、先日ですね

駅のベンチに座って待ってたんですね

ふと壁にかかってたアナログ時計を見た時に

(その時は針も差していなかった)数字の2が

なぜか目に入って、

ちょっとの間見つめながら、、、

学生時分に勉強した数学を思い出しまして。

座標の問題でx軸、y軸って出てきましたよね。

x線上の数の中で仮に適当に「2」という数値だけをピックアップした時に

その「2」は

果たして

それだけで存在し得るのか?と疑問に思ったんですね。

2の前の1以下の数と、

2から続く3、4、5、6、7、…という

【「2」ではない無数の値】があるから存在しえているんじゃないかと。

「2」までのそれまでの流れと、それからの流れがあって初めて

「2」という数値(記号)が自分の存在を証明し得るんだと思います。

だから、「2」であるっていうことは

「2ではない」というのと

一緒のことで、

これを「人間の生」に当てはめて

生きてるっていうのは、死んでること。

モードが切り替えるだけ。

という風に考えると、世間一般の「死の恐怖」というのも若干和らぐんじゃないかな?

とふと考えてみました

あまりにも

すぎて。

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